塵ひとつなく磨き抜かれたスタイリッシュなキッチンの上には、かごいっぱいに、不恰好でふぞろいの実が山積みされていた。忙しく動き回るシェフたちに強引に声をかけてみる。「これ、なんですか?」ああ、これはマルメロというんですよ、秋に急激に寒くなる地域でよくとれる作物なんです。梨みたいな食感ですよ、と、ふんわりとやさしい笑顔で答えてくれたのは、グレゴー・ストレイン(Gregor Streun)副料理長だった。オーストリアは農地化されていないところが多く残されていて、こういった野生の作物も食べられているとのこと。
もう一つの大きなかごにも野生の食材が積まれていた。「杏茸」と呼ばれる、黄色がまぶしい野生のきのこだ。このきのこはとてもきれいな自然環境の中でしかとれないもので、探すのが大変とのこと。オーストリアでもきのこ「狩り」というのだそうだ。秋になると山に入り、友達と摘みに行ったことを思い出します、とウィーン出身のディーター・シュタミンガー(Dieter Stamminger)シェフが言う。
一流のシェフたちが手にかけるわけだから、ディスプレイも、細部に至るまでの味や食感のバランスの気遣いも、プロフェッショナルそのものだ。でもその中に、あったかい、お母さんの味のような気持ちにさせるものがある。遠い異国の料理なのに、やさしく、懐かしいような気持ちになる。長年、生活の知恵をふりしぼって、愛情をこめて、滋養と食べる幸せのために作られつづけてきた料理には、そんな力があるんじゃないかと、各国の食文化を取材をしてきて感じるようになった。例えば、今日のメニューにある、厳しい冬を乗り越えるための保存食、ザワークラウトや血の入ったソーセージ。地元のお酒、ビールで煮込んだお肉。固くなったパンとベーコンで美味しく作り直した、付け合わせ。自然乾燥させてから薫製して香ばしく作ったハムも、野生の果実のジャムも、収穫のできない厳しい寒さの季節を賢くおいしく過ごしていく上の知恵の結晶だ。限られた条件の中で、普通の人たちが生きていくために創意工夫して作り上げてきた料理は、なんて温かく、幸せな文化なのだろう。
ここで、パンとバターにはちみつが登場した。総料理長、ゲルハルド・パスルガー(Gerhard Passrugger)シェフの思い出のつまった一品だ。はちみつの種類は、ひまわり 、菩提樹の花などの花の蜜からできた通常のもののほかに、樹液からできた「甘露蜜(honeydew honey)」と呼ばれる深い味わいのはちみつの瓶が二種、並ぶ。
ゲルハルドは、険しい山々のすぐ近く、ザルツブルグの出身。セミプロの登山家のお父さんと一緒に、よく山に登ったそうだ。また、秋の時期、一日かけてシャントレルきのこをさがしにいく。そんなときは、途中で農家をやっているおじさんの家に途中で立ち寄り、おばさんの手作りの焼きたてのパンにバターとはちみつをつけて食べた思い出があって、それをここで再現したのだそうだ。
ゲルハルドにも、いつも外交官のみなさんにお聞きする質問をしてみた。「自分の国の一番好きなところは何ですか?」
「山ですね。」と彼は答えた。個人的に、自分がザルツブルク(Salzburg)の出身で、父親と山で過ごしたことが多いからかもしれないけれど、と言う。しかし実は、前回の大使公邸での取材で、何人もの、それぞれ別の地域の出身でバックグラウンドも違うオーストリアの人たちが、同じ質問で山に関する回答をしているのだ。胸がどきどきする。ゲルハルドの回答を待った。海外暮らしの長いゲルハルドはこう言う。
ロンドン、シドニー、香港、上海、そして今は東京。あらゆる国の大都市で仕事をしてきました。煌びやかで、ブランド力があって、重要な都市、といったところでしょうね。でも、オーストリアに帰国したときは、まず、あの圧倒的な険しい山々の中に数日間一人で入っていくようにしています。あの壮大さとダイナミックな天候の中に身を置くと、自分たちがどんなにちっぽけなものなのかを感じざるを得ない。
そして美しい。そしてあの、オーストリアの自然の中に身を置く時間、あれは奪い去られることがないもの、世界の多くの場所とは比較できないものだと思うんです。あの自然は非常に荒々しく、容易に立ち入ることができないもので、本当の自然と言えるものです。世界のあらゆる地域では、自然が人間の支配下にはいってしまっているけれど、オーストリアのあの険しい山々は、ある意味、手なづけることができないものでしょう。
南部、ケルンテン(Kärnten)州出身のアーノルド・アカラーさん(Arnold Ackerer)にも、同じ質問をしてみた。すると、「自然へのアクセスのよさですね。」とおっしゃる。「近場でなんでもできるんです。家から外に出れば、30分以内でスキーや、登山など、すべてできるんです。」
やっぱり、オーストリアの方々は、口々に、自然への愛情と尊敬の念を語られるのだな、と感じる。
一方、 オーストリアは、地理的要因、標高の高い山々に分断されて、歴史的にみると、各地方が強い独特の文化と伝統を築いてきた場所なのだという。
では、アイデンティティはどうなのか。ご自分は、オーストリア人だと思うのか、それとも自分の地方の人という意識のほうが強いのか、聞いてみた。
ゲルハルドが笑って言う。「ドイツのどのあたりの出身ですか?」って聞かれることがよくあります、と。そんなとき、こう答えるのだという。「南のほうの小さい地方で、オーストリアっていうところです。」と。するとみんな、「失礼しました! 」と真っ青になるのだと。「本当に、だいじょうぶですよ。国から長い間、遠く離れて暮らしていれば、そういうことは、本当にちっぽけなことになるんですよ。」
自分の出身地は、多くの人にとって、自分が何者なのかを示すわかりやすい位置づけなのかもしれない。しかし、共有する哲学、という人の立ち位置もあるのではないだろうか。オーストリアの方々にお会いして、そう思う。長く故郷から離れた街に住んで、どんな価値観にさらされようとも、何千キロ彼方にある故郷の大自然への敬意を忘れない。本当に素敵だ。山が常に見える場所で育ち、また、国土の約75%を山地が占める日本列島の出身者として、記者は、自分が心の奥底にかくして語ってこなかった価値観を、遠い国の人から素直につきつけられて、目の覚める思いがした。
ちなみに、ゲルハルドのこんな考えも、記者が共有するところだ。
「どこを旅しても、食べ物はすばらしい。食べ物は、文化を強く表現するものです。」「どこかの国に行くとき、一番最初に考えるものの一つは料理でしょう。楽しみにするし、料理によって、その国がどんな国なのか、認識するでしょう。だから、食べ物というのは、どの国にとっても非常に大切なものだと思うのですよ。」
今回いただいた、オーストリアの料理には、自然に対する大きな敬意、という彼らが歴史の中で気付いて来た哲学が、しっかりと根付いていた。
そして食文化のすばらしいところは、何千年もの間の人の生活と歴史に根ざしているから、国境は関係がなく、世界地図を水彩絵の具で塗ったくったように、想像できないほどあらゆる部分がまじりあっているところなのだ。
アイデンティティと、哲学と、共有。私たちは、料理という文化の入り口に立ったばかりだ。
Story by: Rika Sakai